「本当の楽しさ」を発見するスクール

僕は混雑を避け、静かな空気感を大切にしています。
だからマンツーマン(少人数・完全予約制)で直接心の会話を
大切に海を案内します。
限られた貴重な時間で、一緒に地球を感じてみませんか!?

海が怖いという初心者の方から、
日頃海で遊んでいる人のステップアップ
プロを目指すアスリートのトレーニング
家族で海を満喫したいというファミリーコース
冒険満載の”海人丸道場” サバイバルキャンプ

きっとあなたにぴったりなスクールがあります。
"Feel the earth." 荒木汰久治

■第1章 「強くなりたい!!」全日本選手権3連覇へ

●生まれる前から転校生
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  それにしても、である。
 そんなホクレアに、僕はどうして乗り込むことになったのか?寄港地でたくさんの人に聞かれた。「どうやったらホクレア号のクルーになれるのですか?」その質問に答えることができない自分に驚いた。なぜ自分がホクレアに魅せられたのか?それは自分自身の生い立ちが大きく影響していた。 


 

 1974年6月29日、僕は熊本県熊本市で生まれた。熊本に4年、宮崎県都城市に3年。そして宮崎市に3年、中学は岐阜。3年以上、同じところに住んだことがなかった。(今沖縄に移住し7年が経つのでここが地元とよんでいる)父親は保険会社に勤務するサラリーマン。父親が出世するたびだんだん東京に近づいていった。僕は生まれる前から転校生なのだ。
 僕は3人兄弟で3つ上の兄と2つ下の妹がいる次男である。他の2人は転校を繰り返しても新しい環境にすぐなじみ、友だちとうまくやっていけるのだが、僕はいつも寂しくて寂しくてしかたなかった。僕も新しい学校でも友だちはできる。やがて、前の学校の同じくらい親しい親友もいた。
 が、転校した当初は、体操着も上履きもぜんぶ違う。恥ずかしさで学校に行きたくなくなったこともある。そして、また、友人と別れて転校していることはわかっていた。結局仲良くなったって3年後にはまったくバイバイって言うわけだ。友だちとの別れがあるのに仲良くなるのが苦痛だった。
 自分の中に矛盾を抱えながらも、新しい学校の中で暮らしていかなければならない。僕は自分なりの処世術を身につけていった。
 転校生という新参者が、自分の存在を認められるために一番いい方法が、勉強とスポーツができることだ。
「今度の転校生はすごい。成績も運動神経もバツグン!!」
 そういうことが伝わっていれば、それだけで全然違う。みんな転入生に興味を持ち、向こうから話しかけてきてくれるのだ。だから自分の存在を認めてもらいたいという気持ちが、勉強でも何でも負けん気を発揮することにつながったのだと思う。
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 意外に思われるかもしれないが、じつは子供の頃の僕は病弱だった。喘息持ちであり、〔肝臓も弱く酒が飲めない・笑。これは大人になった今でも同じだ〕

 

  生まれたのは熊本県。4歳で宮崎県都城市に引越し、さくら幼稚園から都城南小学校へ入学し2年生まで過ごした。小学校3年生の時、ようやく自分で一人歩きするようになった時に一家は宮崎県へと転勤が決まり始めて転校を経験した。その時の自分は新しいところに旅行に行くような感覚で当たらし家がとても楽しかった。そして父が初めて海に連れて行ってくれた。これが僕と海との出会いだ。(それ以前の幼少の思い出は記憶にはない)「鬼の洗濯岩」という奇岩で有名な宮崎・青島で魚を釣ったり、走ったり、怪我で痛い思いをしたことを覚えている。兄の担任の先生がキャンプに連れて行ってくれた。川辺に行ってテントを張り、穴を掘ってトイレを作った。キャンプファイアーをして、川に飛び込んで遊んだ。今でも目をつむると、当時の光景が鮮明に浮かんでくる。
その竹下先生はアウトドアのスペシャリストで、2005年の海人丸の航海では宮崎で受け入れもしてくれた最高の師だ。
 スポーツではソフトボール、そしてサッカークラブに夢中だった。同時に学校の勉強もかなりしていた。とにかく負けず嫌いで、テストの点でクラスメートに負けるのが悔しかったのだ。小学校の時には問題集を毎日ずっとやり続け、テストでは高い点を取っていた。
 なぜ負けず嫌いなのかを考えてみると、一つには「褒められたかった」からだと思う。
一番になって褒められたい。小学校5年の担任だった中山先生は常に「よくやったねえ」と言ってくれた。当然親も嬉しがった。先生に、そして親に褒められたい。そういう思いが強かった。海や自然と親しむこと、そしてスポーツや勉強に対する意欲の原点はこうした幼少期の体験にあるわけで、両親と恩師にはとても感謝している。全てがやる気に満ち溢れていた。毎日がとても楽しかった。ようやく一人の子供が何かに対して興味を持ち一生懸命になろうとしているそんなある日、父は岐阜県転勤を命じられた。2度目の転校の話を聞いた時、すでに自分は友達や先生達との別れ、大好きな海や山、そして熊本の祖父母。自分の発祥の地がある九州から離れる事にかすかに抵抗を感じた。「岐阜って一帯どこなの?」その時の自分は本州が海外に行くように遠い存在だった。
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母親は自分にこう言ってくれた。「転校のお陰で友達はたくさん増えていったでしょ。」「あーそうだねっ。」と思った。そしてそれを信じて生きてきた。でも最近思う。友だちとは何だろう?仲間ってなんだろう?数多く顔のしれた間柄が友達なのだろうか。その中でも根っこで繋がってる友だち何人居るだろうか。結局転校生の自分が覚えている友達の顔は相当の数になる。でも本当の親友はその中にはいない。皆根っこから繋がっていなかったのかもしれない。36歳の今も同じ気持ちがあるのは間違いなくこの幼少体験を引きずっているのだと思う。

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 小学6年で岐阜県へと転校した。たった一年しか在籍せず卒業アルバムに自分の顔が載ることにとても不自然を感じた。暖かい九州から一気に雪の降る初冬、環境の変化に体の成長がついていけず小児喘息とアトピー性皮膚炎が発症した。そして中学入学。なんとその3年間は1年ごとに学校が変わった。入学した長森中は2,000人を超すマンモス校だった為、中1から中2になる時に新たに長森南中学校が新設され我々長森南小学校のメンバーが分離した。中2から中3の時に転校があったのだ。いわゆる思春期に環境の変化が繰り返されたために、当時は肉体だけでなく精神的にもかなり不安定になった。
 中二から中三に上がる際の転校では、僕は親に反発して宣言した。
「もう僕は絶対に着いて行かない!」
 転勤が決まった数ヶ月前から、親とは何も話をしなくなった。自分に勝手に下宿先を探し始めたりした。友達の家を回って下宿を頼んでいたので、親同士で「今度はうちに来たわよ」なんて話が伝わっていたりしたくらいだ。
最後には校長先生のところまで下宿の交渉に行った。当然周りの仲間たちは僕を応援してくれる。学校全体が一種の“転校騒動”のような事態に発展。まさに子供のクーデターのようだった。担任の先生も困ってしまったし、親を本当に悩ませた。もちろん自分もすごく不安定になり、勉強のやる気もなくなった。とうとう担任と母親と自分は校長室に呼び出された。その時の光景を自分は決して忘れない。

「校長先生、本人を納得させる方法はないでしょうか。」母、

「荒木君、君は何年生きていますか?」校長先生、

「14年です。」本人、

「私はその4倍近くこの人生を生きている。だから私の言う事を聞きなさい。」校長先生、

「(どういう意味だろう。)ハィ、、」

正直自分は冷めていた。何年生きていようとそれが転校する事の理由だと聞かされてすんなり納得するには14歳の自分は若すぎた。

ただ1つだけ嬉しいこともあった。最後の最後まで転校することに反感を感じていた自分が校舎を離れる日。涙ながらにクラスに別れを告げ、母親と一緒に校庭から出ようとしたとき、窓の側に沢山集まった友達(ここでは親友ではなく顔見知りの仲間も含め)が身を乗り出しながら大声で叫んでくれた。

「荒木-!元気出して頑張れよ-!!」

「また帰ってこいよ!」

溢れるような涙が一気に零れ落ちた。14歳の自分にはとても辛く長い戦いが1つ終わった瞬間だった。そして感動の涙は敗北ではなく、新天地でのチャレンジへと繋がった。


 結局転校したものの、中三の1年間は荒れて好き放題だった。警察のお世話にもなってしまった。とは言え、自分が付き合った不良仲間は皆、成績が良かった。当然自分も成績は常にトップクラスだった。「他人に文句は言わせない」という負けず嫌いの精神の現れと、やることをやったら何をしてもいい。どうせ1年間でこの学校にもさよならだから。という思いが常に心の奥にあった。そして、高校入学。当時の担任には山梨県で一番の進学校を勧めら何度か受験を考えた。でもはっきりと断った。高校進学は今までの人生で初めて選択できるチャンスだった。これ以上、学校や親のいいなりにはなりたくなかった。ただ何かに熱を投資したかった。自分はとにかくスポーツをやることで、自分を保ち続けていた。だから自分の意志で高校時代はスポーツに打ち込みたいと決意した。

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●東海大学甲府高校、教育実習の先生は茶髪のライフガード・チャンピオンだった


 1990年4月、僕は東海大学甲府高校入学に入学する。
 高校に進むと、勉強はもういいやという感じで、スポーツに専念することにした。二つ上の兄が同じ学校のバドミントン部に所属していたことで自分も同じクラブへ入部。高校では転校をしなくてもいいと両親は約束してくれたから集中して取り組める、よし3年間で行けるところまで行こうと、ひたすら練習に打ち込んだ。実力は確実に上がり全国大会が見えるところまできた。父親は自分が2年生の時新天地、横浜勤務となったが自分のスポーツにかける自己意欲と人格は形成されていた。もう両親の言いなりにはならない。父親は単身赴任で横浜へと移動する。だが惜しくもインターハイの県予選決勝の前々日、祖父が他界し深く落ちこみ負けてしまう。大会後すぐに熊本へ飛び高校3年間の悔し涙と、家族の命がこの世を去る現実に涙を呑む。
 そして、夏が過ぎいよいよ大学進学の時期となる。その冬僕には運命的な出会いがあった。大学から教育実習にきた先生が当時のライフセービングチャンピオン。茶髪で日焼けした筋肉隆々の海男だった。彼は我が校野球部のOBで、高校時代は甲子園でベスト4出場をした、という。
かっこいいなあと思って聞いた。
「何をやっているんですか?」
「ライフセービングだよ」
「俺もやります!」
 中学・高校は岐阜や山梨という「海なし県」に住んでいて、海との関わりはまったくなかった自分だが。宮崎小学校時代の薄れ掛けた海の記憶よりも目の前のカッコよさに純粋に憧れた。インターハイ予選の敗北にくよくよしていた自分はまた新しい目標が見えた。高校3年間、成績はクラスで上位だったお陰で同系列の東海大学に進学。しかも自分の好きな学部を自由に選ぶことができた。部活動を引退した秋口から勉学に励み卒業試験で一番を取る。7年前、小学校5年生の時に必死に問題集をやっていた思い出。「やればできるんだ。」スポーツの挫折を味わった僕が再び新しい大学生活へ挑戦する意欲を持つ。

●海との再会、湘南校舎ライフセービング部のツワモノたち

 

 1993年4月、僕は、神奈川県平塚市にある東海大学湘南校舎の経営工学部入学を選んだ。理由は単純。「東海大学は工学部が有名だよ。」と親戚の叔父さんが言ったから。何を勉強したいわけではなかった。

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 ライフセービング部の説明。
 中学時代は岐阜市の長森、長森南、そして山梨県甲府市、富竹中学校。高校は同じく山梨県甲府市東海大学付属甲府高校。6年間で4つの学校を渡り歩いたがいずれも海とは縁のない場所ばかりだった。が、今度は湘南。海が目の前だ。とにかく海に憧れていた。オマケに東海大湘南校舎のライフセービングは名門だった。当時ライフセービングというスポーツはまだ国内で始まったばかりだったが東海大学と日体大学の2校が競合でいつもインカレ優勝を競ってた。7年先輩には、鯨井保年さん(94年「RESCUE'94ライフ・セービング世界大会」(イギリス)優勝) がいた。テレビ、雑誌でもよく見かけた当時のビーチフラッグ世界チャンピオン。『筋肉版付け』というTBSの番組内でも定番となったこのスポーツは鯨井さんが普及したといわれている。まだ必死に泳ぎを覚えようとする自分にとって彼は雲の上の存在だった。
 同期には、後に俳優となる飯沼誠司。飯沼は自分と同期で1年生の頃からスター選手だった。子供の頃から経験していた水泳の力を活かしボード、スキー、ランニングと全ての分野に力を伸ばし鯨井さんに続くライフセービング界のヒーローとなった。大学を卒業し自分と共にプロとして数年活動した後、本格的に俳優を本業として様々なドラマや映画に出演し今も精力的に活動している。
大学入学式の日、体育会ライブセービングクラブの門を叩いた。まずはじめに新部員の泳力テストが行われた。自分はなんと25M泳ぐ事ができないことを始めて知った。毎日泳ぐ練習の繰り返しで、人を助けるなんてとんでもなかった。ライフセービング協会認定の資格試験も400メートルを8分以内で泳ぎきれず失格。2回目の泳力テストで何とか合格し夏のライフガードの資格を取った。そして本番の夏を迎えた僕は。神奈川県湯河原町海水浴場でライフガードになった。ここでオーストラリアから毎年来日しているインストラクター達と出会う。外人ライフガードのかっこよさに憧れ更にやる気になった僕は、ただひたすらにトレーニングに没頭した。

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 ライフガードには救助能力を競い合うための競技会があり、近年スポーツとして確立されている。ライフセービング競技は、海やプールなど水辺でのライフセービング(人命救助)に必要な体力と技術力とを競うスポーツ。単純で純粋なスピリッツに裏付けされている。競技種目としては、浜辺で行なうビーチ種目と海で行なうサーフ種目の二つに大別される。よく知られているのは、ビーチ種目の一つの「ビーチフラッグス」。海岸で後ろ向きにうつ伏せになり、20メートル離れた地点に置かれたホースチューブを取り合う競技だ。ライフセーバーの第1人者、鯨井保年さんが世界チャンピオンになったのはこれ。
一方、僕がチャレンジしたのはサーフ種目の「サーフスキーレース」。これはサーフスキー(カヤックに似た乗り物で高速度が出る)を使って300メートル沖の三つのブイをパドルで漕いで回り、ゴールするレースだ。自分は苦手な水泳ではなく、救助用レスキューボードを軽量化したパドルボードという種目、そしてサーフスキーというパドルを持ち漕ぐ種目に没頭した。それが18年後の今、自分を支えるアウトリガーカヌーというパドルスポーツに繋がることなど想像もしていなかった。
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●「あ、やばい、苦しい。もう、死ぬ」16歳少女に救助される屈辱!!


 1994年2月、大学1年の僕は夏場AUSインストラクターを頼りに渡豪した。生まれて初めての海外だった。初めての海外。お金のない自分は父親に相談を持ちかける。「オーストラリアに行って海外の海を見てみたい。」父は快く了承してくれた。
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 生まれて初めて外国へ行きカルチャーショックを受ける。2周りも大きなオーストラリア人の体格と、海のパワーに圧倒される。そして大自然の美しさに、フライドポテトの量の多さに、とにかく見るもの全てに驚いた。資格試験の勉強の前後、朝と晩には毎日トレーニングをした。ある日、パドルボードのトレーニング中、波に巻かれた僕は生まれて初めて溺れる経験をした。「あ、やばい、苦しい。もう、死ぬ」 溺れながらそう思い、ゲホゲホ吐いた。こんなに苦しいのかと、溺れる人の気持ちがわかった。同時にライフセーバーを目指している自分でも一つ間違えば溺れてしまうという事実に、自然の怖さと自分の弱さを痛感した。だからこそ、強い人間になりたいと思い、その指標の一つとしてライフセービング競技の結果を求めていたのだ。「大丈夫!?早く摑まって!」と助けに来てくれたのは14歳の女の子だった。あまりにも大きすぎるカルチャーショック。その夜は心身ともにズタズタだった。

翌日、朝日が海から上がってくるのをヨーグルトを食べながら見ていた自分は何故かエネルギーが沸いてきた。「挫折して落ち込む時間はない。」と僕は自分の殻を脱ぎ捨てた。そして砂浜に降りて一人でランニングトレーニングを開始した。毎朝、毎朝日の出と共に海を走る。嫌な事は全て忘れ必死に走り続けた。そんなある日、当時ライフセービング世界チャンピオンだった鯨井保年さん(同クラブ卒業生)とビーチで偶然出会うことになる。その日もとてもいい天気だった。走り終わった自分は腰を下ろしストレッチをしていた。すると遠くから外人に負けない程の逞しい体格の日本人が歩いてくる。モデルのような顔。「鯨井さんだ!」あまりの緊張に自分は小さくなって顔を背けてしまった。そんな自分に鯨井さんの方から近づいて声をかけてくれた。

「お前、東海大学ライフセービング部だろ?何してるの?」

「は、ハイ。溺れた事が悔しくて毎朝一人でランニングしています。」

「そうか、じゃ、今から一緒に走ろうか?」

あまりにも気軽な鯨井さんに驚いた。そして憧れの人に出会えたのは自分が溺れたからだと勝手に幸を感じてしまった。

それ以降2,3月に毎年、ライフセービングの本場、オーストラリアに2カ月滞在し3月に開催されるライフセービング全豪選手権に出場していた鯨井さんのタオル持ちしながらトレーニングに対する姿勢を学ぶ。

「強くなれ。」

という一言が鯨井さんの決まり文句だった。

 

“強くなる”

 

これが僕の一生のテーマとなる。

 

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●目の前で遭難事故! 海保のヘリが旋回し、救急車と消防車が終結 

 

 父親は転勤で山梨から横浜に。大学入学時は父親と2人暮らし。2年間は横浜から平塚に通っていた。少女に助けられる溺れた経験と、鯨井さんと出会いという二つのお土産話を持って帰国した自分。成田空港で出迎えてくれた両親とその足で定食屋に行った。たった2ヶ月間のオーストラリア滞在だったが日本食が恋しくてたまらなかった。カツ丼と味噌汁の懐かしい味に泣きながら食べた。腹が一杯になった自分は2ヶ月間の思い出話をはじめた。

「海外の選手は、体格やパワーにおいて僕たち日本人選手をはるかに上回る。ライフセービング競技がもっとも盛んなオーストラリアの選手などは山のように大きく、ものすごいスピードでサーフスキーを漕ぐ。当時はまだ競技力に乏しかった僕からすると、みな手の届かない、神様のような存在に見えたんだ。そんな彼らを見て、僕は自分の弱さを痛感した。「あー、強くなりたいなあ。あいつらに負けたくないなあ」 だからただひたすらトレーニングに打ち込みたい。」

「高校時代、バトミントンで県二位に終わり、インターハイに出られなかった悔しさも忘れない。だから今度こそ負けたくないし、葬式に間に合わなかったおじいちゃんに何かを恩返しをしたい。ただ強くなりたい。ひたすらにトレーニングをしたいから海のそばで一人暮らしをさせてくれないかな。」

両親は快く了承してくれた。小さな時からどこか離れた存在だった両親が、このとき自分の事を理解してくれたことが本当に嬉しかった。それから徐々に親子のコミュニケーションがとれるようになり、家族も自分の“強くなる”という夢に応援をしてくれるようになっていった。

4月、一人暮らしを始めた自分は毎朝一人で大磯の海岸に通いサーフスキーを漕いだ。2年生の夏、湯河原海岸にはオーストラリアの時にとても仲良くなった自分の親友・トッドがインストラクターとしてやってきた。2年目になる僕は2年年上の大先輩・豊田尚久さんとトッドの背中を毎日必死で追いかけて漕ぎ続けた。夏が過ぎた9月、全日本選手権でその豊田さんが優勝した。僕は決勝にも残れなかった。秋が来てオフシーズンになっても自分は少しでも強く、そして速くなることしか考えていなく毎日海に通い続けた。そしてまた両親にとんでもないお願いをした。

「来年1年間、大学を休学しオーストラリアで英語とトレーニングに集中したい。」

当然返事はイエスだった。

 

そして、95年2月、2度目の渡豪。インストラクターの資格を取得。このときから毎冬ライフセービングの後輩達の指導を始める。教育活動はこのときから始めた。豊田さんと共に渡豪した自分は彼に対する憧れよりも、ライバルとしての意識を持つようになった。4月から1年間完全にトレーニングに集中するぞ。と全日本チャンピオンになることを覚悟し、自分の可能性に賭けようと夢に目覚め始めたのがこの時期だった。飯沼始め東海大学の同期達はいよいよキャプテンの時期になる。当然一緒に夏を過ごしたい。キャプテンの伊東孝彦は「汰久治、俺はお前と一緒に夏を過ごしたかった。」と自分の渡豪を寂しく感じてくれる熱い人間だった。しかし自分は後ろ髪を惹かれる思いを振り切るように夢を求めてゴールドコーストへ渡った。全ては強くなる為だった。

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大学3年休学。1995年4月、二十歳の僕はシドニーからゴールドコーストに活動場所を移す。ノースバーレーサーフクラブの門を叩いた。しかし生活は苦労の連続だった。まずは英語力。日々のトレーニングメニューは全く聞き取れない。20人近いトレーニングチームの中でたった一人の日本人、しかも中学生程度の実力しかない。当然誰も口を聴いてくれなかった。ただそんな中でもコーチのミック・ディ・ベタは優しくしてくれた。オーストラリアの中でも一番有名なトレーニングコーチであり本人もまた競技者である。語学学校で英語を勉強しながら日々トレーニングに打ち込む。日本人差別を受けながら自分の劣等感と日々向き合い始める。語学や海の実力がままならない日々でも少しずつでも仲間に受け入れてもらえる嬉しさを感じた。その年の全日本選手権のニュースが入ってきた。ビーチフラッグでは世界チャンピオンの鯨井さんが無敵。自分のライバルの豊田さんは更に強く王者に君臨し、そして同期の飯沼も確実にスター選手として強くなっていた。オーストラリアでの1年間は人生の中でもっとも精神的に辛い修行だった。しかし日本では先輩やライバル達が頑張っている。自分は帰国したら必ず日本一になるという思い一つで頑張った。(この当時の仲間達ジェイミーやコーチのミックは現在モロカイチャンピオンになっている。昨2007年3月のバッファローコンテストでも戦った。)冬になると鯨井さんが来てくれた。自分はタオルもちをしながら彼の全豪選手権を見守った。1996年4月、大学33に復学。武者修行を終えし帰国した。

 

1996年僕が大学3年のときに妹が桜美林短大に入学(なんとその頃、妹は東海大学甲府高校でバドミントン部に所属、兄の夢だったインターハイ出場を成し遂げたと聞き自分は驚いた)。神奈川県藤沢市鵠沼海岸の一軒家に家族4人で住むようになった。自分と父親の一人暮らし生活は終わり久しぶりに家族暮らしだった。(兄は地元熊本で就職、現在も一人暮らし中)僕は強くなろうと、本気だった。全日本チャンピオンになるためだけに生きていた。鵠沼海岸で走って漕ぎ続けた。海以外には目も向けなかった。プロテインを飲み始めジムトレーニングも本格的に開始した。家族は完全に応援体制で夏を待った。

 

夏はある日、大きな出来事が起こった。大学3年生として毎日、湘南の海岸線を鵠沼から、茅ヶ崎、平塚、大磯店と走る国道134号で大学に通った。夏が来る直前の6月末、ある事件が起こった。その日は台風が接近していて海は大変荒れていた。10時頃のことか。僕はいつものように日課の早朝トレーニングを終え、国道134号を通って大学に向かっていた。茅ヶ崎市と平塚市の県境には相模川が流れている。その川にかかっている湘南大橋を通る時、沢山の救急車や消防車が集まっているのが見えた。そして河口の杭に掴まって動けなくなっている2人のサーファーが見えた。大波が周りを囲みもの凄い流れが包み込んでいる。海上保安庁のヘリが上空から救助しようとしていた。フロントガラスに吹き付ける強風でワイパーの動きが鈍い。雨はそれほど降っていなかったが車内の自分は思った。

「もし、自分が第一発見者だったら助けに行けるだろうか。あの海に飛び込めるだろうか。」 

「川の流れを使って、上流から飛び込む。そして浮力体を持って溺者と一緒にゆっくり沖に泳げば大丈夫か。」

「いや、頭で考えられても実際行動はできないな。」

留学トレーニングを終えたとはいえ、湯河原海岸での浅いライフガードの経験しかない自分は、究極の状況で人を助けに行く勇気がないことを痛感した。

「もし自分だったら、もし自分の家族だったら助けに行けただろうか。」それから放心状態になった。

「これはスポーツの勝ち負けとは全く関係無い世界だ。」

「生きるか死ぬかという状況で始めて自分の強さは試されるんだ。」

翌日新聞には無事救助されたと大きな記事が出ていた。(同じ日に由比ガ浜でもサーファーが沖に流されて救助されていた。)

僕は純粋に自分の可能性を知りたいと思った。その2年後、エディ・アイカウの話を聞いたとき、この日の出来事が脳裏を走り、僕はモロカイに、そしてホクレアに導かれていく。

 

その夏は憧れの鯨井さんのいる平塚海岸、しかも事故が起きた相模川河口付近でライフガード活動をした。そして完全に日々のトレーニングにのめり込む。1996年9月全日本ライフセービング選手権初優勝した。

「まだまだお前は強くなれるぞ。」

優勝の後の鯨井さんの一言は僕をもう1つ上のレベルに引き上げてくれた。スターとしてメディアに取り上げられていた鯨井さんの表向きのかっこよさだけでなく、内に秘める厳しさと、たった一人で世界を相手に戦い続ける真の強さを感じた。

「僕も鯨井さんのようにプロとして世界の舞台で戦いたい。」

既に自分の夢は日本から世界へと向いていた。

 

再びオーストラリアへトレーニングに渡る為に、 大学2年秋。再び渡豪するために日々深夜のアルバイトに没頭。遺体を洗うバイト、そして病院で献体になったり。1週間で30万円以上を稼いだ事もある。とにかくオーストラリアのミックの元でトレーニングに没頭したかった。毎朝のトレーニングと疲労が重なり、倒れてしまった。体重が激減してベッドから動けない状態が続くある日、関西大地震が発生。

「もし自分がこの場所にいたら……」と生きていることに改めて感謝する。熱にうなされながらも、今生きているうちに精一杯のことをしたいと強く願った。

翌1997年、大学4年になった僕は全日本2連覇。そして98年三連覇を達成した自分は更に世界代表を目指しトレーニングに激しさを増した。1998年、東海大学はライバルの日体大学を破りインカレ男女アベック優勝をした。

トレーニングを重ねるほどに強くなり、大会で勝てるようになることが本当に楽しかった。休学までして競技と語学力の厳しいトレーニングを積もうと思った。周囲はそんな僕をこう批判した。

「あいつは競技志向が強すぎる」

「あいつは単に競技者であって、ライフセーバーではない」

だが僕は、単に競技者としてだけ強くなりたいと思っていたわけではなかった。むしろ人間的な意味で強くなりたいと思っていたのだろう。

 

1998年1月、大学卒業が近づくにつれて就職活動という新しい壁があった。自分は又新しい人生の選択を迫られていた。友人の誘いで大学とは別に東京の英文会計専門学校へ通い始めた自分は就職先をウォルトディズニーエンタプライズ経理課へと決める。それと同時期に3月にニュージーランドで開催される世界選手権の日本代表選手に選出される事になった。

 

ここで又自分は新しい海の道、そうモロカイへと導かれたのだ。(第2章は下記写真をクリック)

ts dream

「自分の力で島を見つけ、仲間と一緒に海を渡る」

沖縄に根を張り海と一緒に暮らして得た事、
毎年モロカイレースでアスリートとしての限界に挑戦、
ホクレア号のクルーとして学んだ経験を
「海人丸」という夢で活かす。
2005年、海人丸で沖縄から愛知まで2000km,56日間の航海。
今、海人丸2号を建造し中国への航海に向けて準備の日々。
すべては、人を海で丸く繋げるために。
文明に頼りすぎて「つながり」が薄れていく世の中で
僕と仲間が大切にしていきたい「夢」を語ります。