「本当の楽しさ」を発見するスクール

僕は混雑を避け、静かな空気感を大切にしています。
だからマンツーマン(少人数・完全予約制)で直接心の会話を
大切に海を案内します。
限られた貴重な時間で、一緒に地球を感じてみませんか!?

海が怖いという初心者の方から、
日頃海で遊んでいる人のステップアップ
プロを目指すアスリートのトレーニング
家族で海を満喫したいというファミリーコース
冒険満載の”海人丸道場” サバイバルキャンプ

きっとあなたにぴったりなスクールがあります。
"Feel the earth." 荒木汰久治

41才にて自己記録を更新(年齢別でも優勝)しました!!

1. 結果

2013 SUPモロカイゴール!!

M2Oからちょうど1ヶ月が過ぎました。実はレース直後、98才になる祖父が脳卒中で倒れ帰国後も沖縄と大阪の病院を行き来しつつ、お盆は九州に墓参りへ。そして夏休みの貴重な日中の時間はなるだけ子供達と一緒に海に出ていたので今日まで一時も机に座ってPCと向き合う暇がありませんでした。今ようやく落ち着いて心中を文章にしています。怒涛のような夏休みは本当に楽しく充実していました。レースで酷使した体は8割回復し、真っ黒に内出血していた両手の指もようやく痛みが無くなり新爪が覗きはじめました。

自己32回目のモロカイチャレンジは日本人歴代ベストとなるunlimited一桁順位(総合7位・5時間40分)、そして40代年齢別で優勝。家族仲間の歓喜に包まれながら感動と涙のゴールでした。17年前に初めて渡った時と何も変わることのない全身に鳥肌が立ち視界が白くなるようなフワフワした感覚でした。間違いなく今年2015年は過去の経験の中でも上位に入るタフな闘いでした。このレベルになるともう“我慢比べ”は通用しません。過酷な環境下で自分をドライブ(前へ進める)手段は通常の“SUP競技”の感覚とはかけ離れています。集中力を切らすことなく5時間以上精神統一できるかどうか?

『気持ちは熱く。でも頭は冷静に、』

恩師ジェイクさんの言葉を17年目にして初めて自分のものにできたと思います。真剣勝負のサバイバルの闘いに挑む時、決して忘れてはいけない兵法。それを習得するには何十年という時間がかかりましたが僕はその領域に一歩踏み入れることができました。既に様々なメディアから色んな情報が伝わっていると思いますが、感じたまま記述しますのでもしお時間があれば長文お付き合いください。

当日のコンディションはほぼ無風に近い微風でした。当日の朝に急激に弱まった貿易風が残したうねりは膝以下のサイズでしたが十分にサーフィンは可能でした。ただスタンスを縦向きにしたのはオアフ島ココヘッドの海流がぶつかる三角波地点とゴール手前で頭オーバーの波に乗った2回だけで、それ以外は全て横向きのスタンスのままでした。17ft.の外洋ボードでもせっかく掴んだ小波から落とされないよう終始漕ぎ続けなくてはいけません。コースレースと比較すると下半身の負担は相当大きかったです。

ハワイ独特の日差しは全身に遠慮なく降り注ぎ世界トップランカーでさせ熱中症で倒れ、20人以上が途中棄権。そして意識が薄くなって順位を大きく落とす選手が何人もいました。足が痙攣し立ち上がれず座ったまま漕いだ選手も多くて、レース後伴走船長にラジオで確認がありましたが誰が失格者なのか、終止が付かない状態でした。(ルールでは1分以上座って漕いだらいけません。)当日のコンディションを予測してエントリーさえ辞退する選手や、直前にリレー部門へと変更するプロエリート選手もいるくらいでした。

いつも僕が口にしているようにモロカイチャレンジはランキングやプロライダー等の肩書きなどは全く通用しない、海と人が正面から対峙するサバイバルレースです。今回は関係者全員が痛い程現実を感じた一日になりました。そう考えるとこんな過酷な年に携われたこと自体がとても貴重な経験でした。『今年は風が吹かず残念だった。』と口にする選手が多いですが、僕は逆にありがたく思っています。

今年良い結果が出たことにはいくつかの要因があります。まずは半年間のM2Oトレーニング計画が成功した事。季節変化する島の環境に合せて半年6ヶ月を2ヵ月ごとに3ブロックに分け、それぞれにピークを作りました。そして最後の1ヶ月間、実際にハワイの海で最終調整し4つ目に最大ピークを合わせました。これはどこかの参考書に書かれたものではなく、ジムや時計に頼る機械的な練習方法とも違います。沖縄に移住して12年、島の地形と天候に合せて徐々にできあがった僕なりの練習方法(=島の暮らし)です。パワー&インナー&スロートレーニング、対乳酸、動作分析とこれまでの長いアスリート経験で信頼する数人のコーチから教わったメニューを自分なりに骨格や筋肉の癖、生活環境に合せて調整し、そして陸のスポーツのトレーニングも混ぜました。

僕のM2Oトレーニング計画をもう少し詳しく説明します。昨年11月の全日本が終わった後12月のKANAKA30kmダウンウインドレースで確実な手ごたえを感じた僕は、毎年恒例の“年末DW合宿“を遂行。ここでは長い(6ヶ月の)シーズンに入る為の”気持ちの整理”をしました。クリスマスの時期は沖縄本島には物凄く強い北風が吹くので体力的な追い込みではなく、波間で瞑想するような1週間の合宿。無数の白波に囲まれていると不思議と心が落ち着き、大晦日を気持ち良く迎えられました。

そして新年から始まった第1ブロック/1,2月。熊本、愛知、鳥取へと極寒の海をDW遠征(冬季DW試走会)しながら、島では強烈な冬の外洋へと漕ぎ出します。年末合宿の時より断然大きな波高3M以上のよれた冬うねりの頂点は風に吹かれブレイクしています。たまにホワイトアウトになっても絶対に平常心を失わないよう、とにかく集中力の鍛錬でした。恐怖心を受け入れることができないとパニックになってしまう危険性がありますが、冬は風向きは急変することがほぼないですから、地形を完全に暗記さえできれば漂流の心配はありません。一つだけ言えることは機材の選択を間違えば危ないです。この時期は普通のレース艇では全く相手にならない荒れた海ですから、外洋専用ボードじゃないととても無理です。

次に春を迎え少し風が落ち着く第2ブロック/3,4月。県内外の短距離SUPレースに出ながら、スプリント練習を交え筋力と肺を確実に鍛えながら、微風DWで細かい技術を磨きました。ここまで4ヶ月間は体力的な追い込みよりも、自然の脅威に向かっていく度胸(心)と、適した機材を自由に扱う身軽なステップワーク、そして海のリスクマネージメントに集中します。機材は通常のレース艇と外洋専用ボードを交互に使いました。

 M2Oトレーニング計画 / 冬季DW
M2Oトレーニング計画 / 冬季DW

 

そしていよいよ第3ブロック/5,6月。南から湿った季節風が連日吹くこの島は、ハワイの日差しが優しく感じる程に強烈な太陽です。その日差しの下で連日30~40km超のDW練習を続けます。冬~春にかけて技術も心も十分に鍛錬を積んだ上で、最後の漕ぎ込みです。練習直後に急に体温が上がり熱中症で倒れたこともありますが、海から上がり冷房の効いたコンビニで1時間以上体を冷やし、自宅で氷に浸かる毎日でした。正直、気を失う程に過酷な日々です。冬の単独航海は薄手ギアで凍えることや熱中症の心配はありませんが、夏場はエネルギー源を一つ間違えばボードの上で気を失ってしまいます。(波間で隣の仲間も倒れたことには気付きません)風向きが急変することもあるのでナビゲーションを間違えば漂流です。エメラルドグリーンに光り輝く美しい海が突然刃を向いて襲いかかってくるような緊張の連続です。もちろん誰かに命を頼ることはできません。サメが出ようと海ガメに囲まれようと、全ての責任は自分、“自己責任”です。僕にとっては灰色の怖そうに見える冬の荒れた海の方が気持ちが楽です。逆に綺麗な夏の海は予測不可能な要素があるので常に不安で怖いです。

でもマラソン選手や格闘家が本番前に高地トレーニングをするように、僕は普段の暮らしの環境そのもの、毎日を生活する事自体がM2Oチャレンジですから周りから見たら辛いことをしているように見えても(僕ら親子にとっては)歯磨き同様当たり前のこと。連日水平線にかすかに浮ぶ島を目指しているとナビゲーションの感覚は冴え、底なしの体力がついてきます。特に今年は第3ブロックに西表の崎原さんから外洋専用ボードが借りることができたので更に遠くの海で効果的な練習ができました。ご協力本当にありがとうございました!!

41歳の今期、トレーニング同様に体のメインテナンスに成功したこともパフォーマンスに繋がった大きな要因です。昨年はモロカイ1ヶ月前に自宅の建築作業中に重度のギックリ腰で2週間寝たきりで動けず、本番も痛みを誤魔化しながらのレースでした。これまでずっと黙ってきましたが実は、僕は腰の他にも体の各関節に沢山の爆弾を抱えています。20年前は今と違って怪我予防の運動方法が確立されてなく、大学に入りしっかりとした基礎トレの指導を受けるまでは、はっきり言って無知でがむしゃらなバカアスリートでした。ただ、学生時代の仲間は30代で怪我に泣く人が多かったのを良く覚えていますが、僕は常に綺麗なフォームで漕ぐことを意識していたので周囲と比べると圧倒的に故障が少なかったです。

しかし3年前38才の頃から徐々に体の異変が起きてきました。(老化は異変ではなく正常な証拠なのでしょうが、)疲労が溜まると膝や腰関節の痛みが気になるようになりました。沖縄で出会ったコンディショニングコーチの指導を受けたお陰で大怪我はありませんでしたが、去年の夏ギックリ腰をした後は、毎朝立ち上がれない程の痛みに苦しみ嫌でも体の老化を感じました。昨年M2Oの後、痛みと付き合いながら出場した全日本選手権。誘導船が途中でいなくなるという主催者のミスで目前の勝利を逃してしまいました。今思えばM2Oと全日本の敗北があったから32回目のM2Oに気持の整理ができたのだと思います。

『怪我や運、理由は問わず敗北を受け入れ前にしか進めない。』

年齢(痛み)と闘う事を覚悟しました。とにかく次の目標に全力で挑戦したかった。

寒い冬場は本当に辛い時期でしたけど、体幹を鍛え痛い箇所を動かす地味な運動をひたすらに継続。3ヶ月後の春から少しずつ痛みが和らぎはじめ、夏場は大怪我を回避できました。(完全に痛みが無くなった訳ではないですが)一度も大怪我無くハワイ合宿に入れたことはとても大きな自信に繋がりました。

ハワイには妻と2才になる娘が同行し連日ドライバー協力と栄養管理をしてくれました。SUPパドラーが少なくカヌーパドラーが多いオアフ島ですが島の地形がDW技術練習に有利な場所がたくさんあるし、何よりも本番の最も辛くなる場所(オアフ島KoKoHead周辺)でのトレーニングこそ目的達成の最大のプロセスです。僕はいつもこの海で本番ぎりぎりまで実践練習を重ねます。島のSUP仲間も増え関節の痛みもほとんど無く毎日リズム良く生活できました。そして新型のSIC17ft.との相性も良く、波が大きく嵐のようなコンディションでも、平水でも日に日に自己ベストタイムを更新していたので、体力、技術、そして精神共に人生最高の状態で本番を迎えられる嬉しさで毎日ワクワクしていました。

僕は、“結果は後から付いてくる”といつも信じています。無数に存在するSUPレースの中で、このM2Oだけは他人との競争ではなく、自分の壁を乗り越える独特なチャレンジです。レースのような緊張感は僕には無くずっと気持ちを楽に過酷な本番を迎える感じでした。そして自己最高の結果はちゃんと後からついてきてくれました。

マラソン選手や格闘家が本番前に高地トレーニングをするように、僕は普段の暮らしの環境そのもの、毎日を生活する事自体がM2Oチャレンジですから周りから見たら辛いことをしているように見えても(僕ら親子にとっては)歯磨き同様当たり前のことです。

レースに限らず全ての海峡横断は、強風で大波コンディションのときはサーフスキルと漕力とナビゲーションの3つのバランス力。微風になれば体力、無風になればなるほど強い精神力が要求されます。年齢と共に体力より経験やマインドを使って勝負するのはどのスポーツも同じこと。たまたま今年は多くの40代選手、世界トップランカーの途中リタイヤが続出でした。若くて体力があってもマインドが弱ければダメだしDWサーフィン練習ばかりしていても駄目だという事。

今年は風があっても無くてもM2Oで上位を狙える不思議な自信がありました。強風だったらもっと多くのライバル達がトップ争いに食い込んでくるでしょうが、僕のサーフ技術も相当上がっているので十分に競い合えたはずだと思っています。

2. 17年間のM2Oチャレンジ

1998年5月、僕は初めてモロカイ海峡を渡りゴール地点で偶然Jakeさんと出会いました。

「お前は日本人か?なんでこのレースに出たんだ?」

「強くなりたいからです。(僕)」

「強くなるって、どういう意味か知っているか?」

「はい。一番になることです。(僕)」

「ハワイではレースで一番になっても速いとは言われても強いとは言わないぞ、」

「・・・?(僕)」

「こんな奴の事を強いっていうんだよ、」

そう言って僕にEddie Aikauのポスターを見せてくれました。

「ハワイでは”ウォーターマン”という言葉がある。そう呼ばれる人間こそがまさに強い人間だ。」

「ホクレア号って知っているか?(その後のホクレアの話は省略)お前は、エディのように仲間(=家族)の為に海に飛び込めるか?」

Jake水野さんとの出会いは、他人と競い合って一番なることではなく、自分の内側からくる、本当の人間としての強くなることだと教えてくれたのです。それからの僕はずっとモロカイを渡っています。そしてJakeさんやナイノアらと日韓海峡をアウトリガーカヌーで横断したり沖縄サバニレースに出たり双胴型サバニ海人丸で愛知万博まで56日間の大航海をしました。そして9年続けたホクレアトレーニングの集大成としてハワイー日本の大航海に参加。日本到着したホクレアに多くの自称“日本人クルー”が乗り込みましたが、僕は下積みをしない乗船クルーとは違うというプライドをずっと大切にしてきました。時間と努力の積み重ねがお金では買えない多くの経験です。

2017年 ハワイ-日本Hokule'a航海
2017年 ハワイ-日本Hokule'a航海

M2Oのきっかけも同じです。僕は情報もまだ何も無かった1998年、ニュージーランドで開催されたライフセービング世界選手権の表彰パーティーで、たまたま外国人アスリートの会話を耳にはさみ、モロカイレースの事を知りました。そして手探りでスタート地点まで辿り着きました。海の迫力と透明度に感動し周囲の反対を押し切って会社を辞めました。その後プロとして食べていく道を模索しながら生きてきました。主な収入はスポンサーの契約金とメディアの出演料。テレビに出れば派手に見える仕事ですがマイナースポーツのアスリートですから何一つ簡単なことはなく、普通のサラリーマンよりの何十倍も営業活動に精を出しました。表に見えることしか分からない周りの知人からは自由気ままな生き方が羨ましいと言われますが、同時にドロップアウトと陰口を叩く人ばかりでした。誰も僕の代わりに好んでモロカイへチャレンジを続ける人はいなかったし、脱サラしてプロを目指そうという人もいませんでした。羨ましさは徐々に嫉妬心へと変わり、中には憎しみの心へと偏下(変化)していく人もいましたが、海に懸ける僕の気持ちと挑戦の姿勢に変化はありませんでした。どんなに疲労しても翌朝には回復できた20代半ばから30代前半は、数分間のライフセービングスプリント競技から30分から2~3時間のオーシャンパドル中長距離競技、そして数ヶ月に渡るエクストリーム(冒険)まで競技に関係なく色々やってきました。サーフスキー、アウトリガー、パドルボードとモロカイを3回渡り海外のナショナル選手権や全日本選手権に出て、しかも冬季はずっとハワイで生活し日本人として単独でパドルシリーズに出ていました。

2005年 沖縄-愛知万博、海人丸航海
2005年 沖縄-愛知万博、海人丸航海

海外に挑戦する僕にとって一番分厚かったのが言語の壁でした。20歳を過ぎて初めて海外留学したオーストラリアではコミュニケーション力の低い僕は誰とも話すことができず、人種差別に近い孤独感を感じていました。だから雑草のように語学を身に付けました。移住先の沖縄でも同じです。県外出身というだけで色んな差別を受けましたが苦労と失敗を繰り返しながら現在の暮らし”M2Oトレーニング計画”を見出していきました。そもそも病弱で喘息で泳げなかった僕が大学のライフセービング部に入ることや、オーシャンパドリング競技者になるなんて誰が想像したことでしょう。僕の半生をずっと空から見ている先祖が一番驚いているかもしれません。

僕は器用な人間よりも不器用な人間で良かったと思っています。誰よりも多くの失敗を経験してきたことで、誰よりも努力することができた。苦手な泳ぎも英語も、喘息だって克服できた。差別をプラスに考える“負けない心”を身に付けることもできた。全ては不器用だからこその生き方です。

17年前のライフセービング世界大会で『日本人にはモロカイは無理だよ。』と捨てセリフを僕に言ったあの人は、まさか17年後に僕がM2Oで一桁に入るなんて想像もしていなかったことでしょう。彼からの情報が無かったらモロカイどころかJakeさんにも会えてないし、海人丸やホクレアも、僕の経験とプライドは何もありません。

2003年M2Oサーフスキー
2003年M2Oサーフスキー

2003年にはM2Oサーフスキーでゴール直前にラダーを折って9位を取り逃がし11位でした。2012年はOC1で3時間53分という自己最速記録(日本人歴代最速)を叩き出しました。その翌2013年ヘルニアで座って漕げなくなった体でも、立ち上がればまだまだSUP競技者として息を吹き返すことができたので、SUPで初めてM2Oに挑戦しました。2年目は怪我で失敗。そして今年3年目に7位と自己ベスト順位を更新できました。これまで良い事、悪い事、色々あった17年でした。

苦労と痛みは時間と共に全て浄化しました。そして全ての思い出が心を清らかにしてくれます。

3. この島で暮らし、この海で鍛える。

Road to Molokai 19『沖縄TV』

2015年7月21日(火)Road to Molokai 19『沖縄TV』遠い沖縄から子供達の元気な姿が届きました。真のチャンピオンになる日はまだ遠いけど、コツコツ努力する姿は間違いなく”日本一”と胸を張れるね。ホノ、シュリいつもエネルギーをありがとう。お前たちはもう十分に親孝行ですよ。今週末はお父さんが頑張る番です!!お母さんと夏南風と一緒にでっかい笑顔で帰国するからね。Keep paddling.Hono was futured by Local TV last night in Japan. still long way to be called "champion" but you guys are working hard and enjoying ocean more than anyone for sure. I'm so proud of you . This weekend is our turn!! We are coming home with huge smile, see you back in home soon. Keep paddling.

Posted by 荒木 汰久治 on 2015年7月21日

“世界で最も(過酷で)ステージの高い”M2O”は決してトッププロだけのイベントではありません。ハワイのローカルパドラー達は皆それぞれ仕事と家庭を持ちながら外洋パドルという、とてもハイリスクな”趣味”に挑戦を続けています。だからこそ僕もそこにチャレンジを続けます。”

ハワイ合宿中に僕がFBにこのような投稿をしました。今から12年前、沖縄へ移住したことがきっかけでスポンサーやメディアとの縁は次第と薄くなっていきました。同時に僕はプロアスリートという肩書を捨て国内レースに出る経費を節約して、年に一度のM2Oに集中しました。世間が言う“社会人”としてアウトリガーカヌー製造販売を自己資本で始め、一年間の全ての暮らしのリズムをM2O中心に組み立てました。僕の競技結果とは裏腹に、ビジネスとしての広がりはスポーツ全体の普及と同じく低迷し、苦難の日々でした。その後インフレータブルSUPのネット販売ビジネスへ進路を微調整しようやく家族5人暮らしに必要最低限のお金を稼げるようになりました。

『年齢と怪我には負ける訳が無い、いや絶対に負けない。』

と強い意志で今、毎日を過ごしています。

僕には、1才半の赤ちゃんと小3、中2と3人の子、そして妻がいます。誰もが大人になればいつか親の気持ちがわかります。父親という立場になると自由時間は一気に減ります。息子と娘は学校の部活として正式に認められた“緑風SUPクラブ”の部員として日々練習に励み顧問役の僕は朝晩の監督責任があります。自分の練習は仕事の空き時間で日中にやっています。安全に海で遊べて、簡単に旅ができる。そんな便利で素晴らしいインフレータブルSUPをアメリカの会社と提携し製品化、そして販売しています。元気な子供達と両親の笑顔が全ての発想の原点です。

冬は北、夏は南から季節風が吹く琉球列島。地域や学校の行事は今でも旧暦で行われています。我が家から海までは徒歩10秒、無人島と珊瑚礁に守られた周囲2kmの天然の砂浜が目の前に広がっています。波があればリーフのポイントブレイクでサーフィンし、沖に出ればハワイに匹敵するダイナミックな30km超級の外洋が、潜れば天国のような景色が広がります。そして目と鼻の先にある妻の実家の家業は漁師。年末は義兄の協力を得て主催するDWレースKANAKAはこの砂浜からスタートします。以前のように海外を転戦するプロアスリートではありませんが、この島のダイナミックな海が、そのまま自宅と仕事場になったことで、(ローカルハワイアンと同じように)働き、子育てをしながら、この先ずっとM2Oで上位に食い込む為にトレーニングが可能になりました。

実は人生の“パラダイムシフト”は僕らだけではありません。昨年、95歳の祖母と一緒に東京の家を売って島に移住した両親は、毎朝SUPで海を散歩するようになり、まさに健康そのものです。先春には親子3代、家族揃って石垣島レースへSUP遠征へも行きました。

父方の祖父母は既に他界しましたが僕らは毎夏必ず熊本に帰省し、一年の報告と新たな決意表明を伝えます。つい先週末も僕らは熊本へ帰省し、緊急入院中の祖父の見舞いと母方のお墓参りに大阪を経由して帰ってきました。曾孫の元気な姿を見て確実に回復に向かっている98歳の祖父の人間力には驚かされるし僕らもまだまだ頑張ろう。と強い意欲が湧いてきます。

これまで様々な海を渡り、危険な目にあってきましたが、過酷になればなる程、いつも空の上に応援してくれる人を感じてきました。僕が事ある毎にお墓に足を運ぶのは、おそらくそんな目に見えない祖先との繋がりを誰よりも強く感じているからでしょう。“お墓を大切にする”ということは“家族を大事にする”ということです。僕はこの世でもあの世でもいつも家族と一緒に笑っていたいです。

僕の家族はハワイにもいます。伴走船長ウェインとはサーフスキー時代からかれこれ20年近い付き合いになります。元々ハワイのKANAKA IKAIKAプレジデントだった彼の勧めで僕は日本初のオーシャンパドルレースを開催し、現在もここ沖縄のローカルイベントとして外洋イベントを継続しています。伴走船に乗って洋上サポートしてくれたのは2007年にホクレアクルーとして一緒に日本を目指したエリックと婚約者イボン。常々僕を精神面からサポートをしてくれる恩師Jakeさん。そして1ヶ月間僕らの留守中に家を守ってくれた娘ホノと息子シュリ。彼らの食事を面倒見てくれた義父母。そして日本から応援に駆け付けてくれた仲間達。今年の結果は最高のOHANAで力を合わせて掴み取った勝利です。

2015年6月2日 沖縄タイムズ
2015年6月2日 沖縄タイムズ

小学4年からSUPを始めたホノは練習を始めて今年で5年目。(11月の全日本選手権では僕もホノも優勝することができました)過去3年間モロカイ島に渡って伴走船から僕を応援してくれました。沖縄では僕と一緒に外洋に出るまでに成長しました。(今期M2Oにも初エントリーしたけれど書類選考で漏れてしまいました・涙)6月末には伊江島までの40kmDWを大人に混ざって見事にソロ漕破。今年の年末KANAKA30kmDWでは必ず結果を出して、来期は必ずM2Oに挑戦すると意欲満々です。いつも姉の後ろにくっ付いてくる小3の弟シュリも日に日に確実に逞しくなっています。姉と弟そして指導役の僕の3人は、親子であり師弟であり、そして同じ目標に向かって切磋琢磨する最強のライバル、トレーニングパートナーです。今は陸で待っていてくれる妻と夏南風ですが、

『家族5人で、でっかい海を渡りたい。』

そんな夢のような光景をいつもイメージしています。

僕はハワイアンの友達が大切にしている精神(ALOHA)や、離れていても、例え亡くなった人でも、家族は繋がっているという(OHANA)の意味を海を渡ることで体現しています。長かった僕一人のモロカイチャレンジは、今やホノとシュリの明確な目標へ、すなわち家族全員の挑戦へと進化(深化)しました。島の暮らしは自信から確信に変わりました。

4. 決意表明

:自分だけの目標:


日本人歴代最高の一桁順位を達成したことで友人や親族関係者の歓喜に包まれました。僕が世界で一桁(7位)に入ったことが周囲からの評価の殆どですが、僕はトップ10の中に40代が一人だけだったことの方に不思議な達成感と満足感を感じています。こんな感覚は生まれて初めてです。

先週帰省し墓参りをした後に僕は不思議な夢を見ました。

『お前、まだまだ修行が足りないよ。これからもっともっと頑張れよ!』

厳しくも、優しそうな年老いた小父さんが、若い日本人の男性の背中をポンと叩いていました。良く見たらその二人は若い時の僕、そして老いた自分でした。これは正夢だと感じています。これまで向かってきた逆境は、実は”年老いた自分自信”だったのです。

例えば大金持ちになりたくて「あんな車に乗ってみたい。」「あんな豪邸に住んでみたい。」と強く願って、嫉妬するほど羨ましがっても、自分がその人に移り変わることはできません。僕も同じでした。世界一流のウォーターマンのように強くなりたい。』と無数の努力を重ねてきましたが、経験と年を重ねても他の誰になれるわけでなく僕は僕のまま。気が付いたらヘルニアの叔父さんです。彼らのような海のサバイバル能力はまだまだ到底ありません。

今までの人生で苦労をしない楽な選択肢も沢山ありましたが、その一瞬、一瞬のジャッジを自分が正しいと信じる道を選択したらいつも逆境ばかりでした(笑)。でも結果的に今毎日が充実し心からワクワクしています。世間で言う“目標”とは他人と自分を比較し満足感を得るためのものですが、僕は一瞬一瞬を真剣に悩み、そしてジャッジし“自分だけの目標”を見つけ邁進してきたら、こんなに幸せな今の暮らしに繋がりました。本当に大満足です。僕にとって人生の幸せとは“他へ関心すること”ではなく“自己満足”だということがやっとわかりました。

:夢と現実~世界一流のプロスポーツ選手へ:

 

僕が長年追いかけたサーフスキーやアウトリガーカヌーというオーシャンパドリングの世界はずっとマイナー競技のまま。我が国で一般庶民に普及するにはハードルが高過ぎました。ましてはオリンピック競技などほど遠い世界です。

ですが僕の競技人生にも最大の転機がやってきました。SUPがオリンピック種目へ入る可能性が見えてきたのです。一時期のスノーボードのように爆発的な人気と共に競技人口が急増するSUPスポーツ、東京五輪は時間的には少しタイト過ぎるでしょうが2024五輪には必ず入るでしょう。

そうすると今から9年後、僕は50歳です。タイミングが遅すぎます。もし来年リオ五輪に入っていたら。とか、後10年若かったら。と何度も想像してしまいます。でも時間は誰にも止められません。20代のような爆発的なパワーも底なしのエネルギーもいずれは無くなっていきます。これまでずっと応援してくれた方々の期待を裏切るようで申し訳ありませんが、僕は国内一流でも、世界では二流選手であることを受け入れようと思います。そしてこれからは僕自身の競技練習時間を犠牲にしても、子供たちの監督業と仕事を最優先することを決心しました。

今年のM2Oは“二流選手”なりの競技人生の集大成でした。これからも暮らしのリズムを崩さずにM2Oへの挑戦を続け、9年後に最強になるホノとシュリを育てることで“世界一流のプロスポーツ選手”の夢をこれからも追いかけます。

過去20年間の競技人生に僕は一切の悔いはありません。風があっても無くても、長距離も短距離でも。全てに全力で挑戦し背中を見せず正々堂々と真正面から闘ってきました。その姿はホノとシュリの目に焼き付いているはずです。

『9年後を見ていてください。必ず親子一緒にオリンピックの舞台へ。そしてモロカイを優勝し世界チャンピオンになってみせます!』

先週、家族全員で自己記録更新の報告と同時に、ご先祖様に新たな決意を伝えてきました。

沖縄タイムス2016年元旦号
沖縄タイムス2016年元旦号

:自分自身への挑戦:


ハワイではいつもシリーズ戦が開催されていて、練習も必ず仲間がいます。でも僕はこの島で失敗が何一つ許されない単独外洋トレーニングをこれまで何百回と繰り返してきました。誰も一緒に漕ぐ仲間がいなかったからです。これはまさに心の鍛錬でした。今年M2Oに出た選手の殆どがこれまでに最も過酷だったと口にしているようですが僕はレース中に辛さで弱気になったことは一度もありませんでした。少し大袈裟かもしれませんが“辛い”とは全く感じなく楽しかったです。

 “I feel good. I think I can do well today!!”

と伴走船長のウェインと常に笑顔で会話を続けていました。でも別に痛みに強くなった訳ではありません。痛みをコントロールする術を身に付けたのでしょう。灼熱の沖縄の炎天下と比べるとハワイの日差しが涼しく感じたのも、沖縄とハワイの気温や湿度を比べている訳ではなく、熱疲労を自分でコントロールできるようになったということ。

昨年は9月から全日本選手権に向け僕個人の漕ぎの練習を再開しましたが、今年は漕ぎよりも基礎体力強化メニューに集中します。年齢に負けない、何があっても怪我を再発しない強靭な体作りに徹します。そして再び自己記録更新を目指しM2Oトレーニング計画を再度練りなおし、来期こそ初挑戦する娘ホノと一緒に、親子が最強のライバル・仲間として2016年M2Oにまず大きな目標を設定します。

また今後子供達がどんどん遠征できるように、今まで以上に仕事を頑張って貯金します。自分のデザインしたインフレータブルが最良の商品だということをTeamULI仲間と共に証明します。一人で遠征することだけでも大変なのに、親子の遠征費を稼ぐことは容易ではありませんが頑張ります。

監督業と仕事、世界2流のアスリートが世界1流のアスリートを育てることができるか?モロカイの先に必ずオリンピックが見えてくると信じて邁進します。家族の幸せ=リズムを崩さずに、自分だけの目標に向かって挑戦を続けます。

2015年6月、伊江島EXPEDITION
2015年6月、伊江島EXPEDITION
2015M2Oスタート, Molokai island
2015M2Oスタート, Molokai island

:魂の世界選手権 ”モロカイチャレンジ”:

 

M2Oはもともと数人の仲間が自らの挑戦でモロカイからオアフを目指したことから始まりました。その崇高な想いこそが世界中から屈強な海の男たちが(女性さえも)毎年集結する一番の理由です。僕らの目的は勝ち負けや順位、賞金やランキングではなく、何よりも崇高で尊い海に生きる人間の命です。モロカイチャレンジを継続していれば、タフな外洋にこてんぱんにやっつけられ落胆する“失敗の年”を誰でも必ず経験します。(2003年腹這いのパドルボードレースで僕は脱水症状で失神しタイムオーバーで失格。それ以外にも数えきれません、)

効率的にタイトル、ポイントが欲しい選手は途中棄権もするし、M2Oを避け他の世界選手権を選ぶでしょう。逆に本物の強さを追求する人は何故か自分が知らないうちにM2Oに惹かれます。そして”人生とは海のような場所”、近道やギブアップはどこにもないということをいずれ体現します。

 

初めて沖縄を訪れ出会った海人(ウミンチュ)とサバニの存在に、ハワイのウォーターマンとホクレアが同化し今の暮らしに繋がったのは必然のことでした。レースの夜、そんなことを考えながら表彰式の会場に向かいました。その夜はただ世界中のウォーターマン達と一緒に同じ空気を吸えるだけで光栄でした。

 

『僕の隣にはいつも愛する家族と仲間がいる。これまでずっと信じて漕ぎ続けてきて良かった。』

 

表彰式の会場は17年前にJakeさんが僕にエディの写真を見せてくれたアウトリガーカヌークラブという場所でした。


金属バットで頭を殴られるような衝撃が走ったエディ・アイカウの生き方。そしてJakeさんから聞いた”本物の強さ”という言葉。それから17年、一瞬もこの言葉が僕の頭から離れたことはありません。外洋パドルスポーツを通して我が子はじめ多くの日本人にウォーターマンの精神を普及させること。僕の使命はこれからも変わりません。

 

『初めてのM2Oへ挑戦したときからずっと目標にしてきたシングル入り。今まで生きてきて、こんなに幸せに満ち溢れたことは無いよ、ありがとう。ホノもシュリも、ご先祖様もみんな喜んでくれるね。』

 

その夜ベッドに横になる時、となりにいる園と夏南風につぶやきました。速さ以上に強さを求めた僕のモロカイチャレンジはまだ続きます。

 

Keep paddling.

過去のチャレンジ

2013 Molokai Challenge
2013 Molokai Challenge
2012 Molokai Challenge
2012 Molokai Challenge
2011 Molokai Challenge
2011 Molokai Challenge

ts dream

「自分の力で島を見つけ、仲間と一緒に海を渡る」

沖縄に根を張り海と一緒に暮らして得た事、
毎年モロカイレースでアスリートとしての限界に挑戦、
ホクレア号のクルーとして学んだ経験を
「海人丸」という夢で活かす。
2005年、海人丸で沖縄から愛知まで2000km,56日間の航海。
今、海人丸2号を建造し中国への航海に向けて準備の日々。
すべては、人を海で丸く繋げるために。
文明に頼りすぎて「つながり」が薄れていく世の中で
僕と仲間が大切にしていきたい「夢」を語ります。